公益の名のもとに
P4「どうせ苦しむのなら、国益のために苦しみなさい....」すごくインパクトなひとこと。
インドでは、国を開発するために、どんどん高いダムを建設している。ダムの建設に必要な土地や資源などをどんどん一般の民衆に求めて、その結果一般民衆はもっと貧乏や劣化の環境に落とされる。
P22:3「確かにインドは進歩した。1947年、植民地状態が形式上終わったとき、確かにインドは食糧不足だった。1950年にインドでは5100万トンの穀物が生産された。今日では二億トン近くを生産している。確かに、1995年には、国の穀物倉庫は3000万トンの売れ残りの穀物であふれていた。同時にインドの人口の四十パーセント、三億5000万人以上が貧困繊維化の生活をしているのも事実だ。それは1947年のインドの総人口よりも多い」作者が言うように、インド人は貧しすぎて、自分の国で作っている食糧が買えない。
P44:5「ナルマダ川流域の闘いは続く。国などおかまいなしに。国は狡猾なやり方で戦っている。見せ掛けの笑顔に加えて、もう一つの大きな武器は、待つ能力だ。攻撃をいなすことだ。敵を疲れさせることだ。国は決して疲れない。歳をとらない。休息もいらない。バトンを渡しながらいつまでも走り続ける。しかし戦う人々は疲れる。病気になる。歳をとる。若い世代もあっという間に。」なんかどこの国も同じようなことが考えられる。戦争世代の補償問題とかも、時間に任せるって感じ。
P44:1「抗議を許されていることを国家に感謝する必要はない。自分自身に感謝すればいいのだ。…私たちが国民として真に誇るべきものがあるとすれば、これがそうだ。」なんか、抗議ということは国民の権利であることを使わないうちに、忘れてしまうし、たまに抗議をしてみたら、国につかまれなかったら、この国は民主的で自由な国と感謝したくなるんだ。P44:14「『現代文明の成果』がやっと届いたかと思うと、それは恐怖しかもたらさない。道路は測量士を運んできた。測量士はトラックを運んできた。トラックは警官を運んできた。...略」
P45:13「『インドは歩みを止めない』。些細な時事問題に煩わされるのを嫌う者たちは、哲学者ぶって訳知り顔でいうだろう。どういうわけかは知らないが、『インド』はその国民よりも価値があるかのように。」
ダムの建設一つでインドの貧乏問題と少数者が資源を支配する現状がはっきり伝ってくる。
想像力の終わり
P120:4「インドの核実験は、そのやり方は、それが私たちに引き起こした病的高揚感は、弁護の余地がないものだ。私にとって、それは恐ろしいことをいみする。想像力の終わり。実はそれは自由の終わりである。そもそもそれこそが、選ぶ権利こそが自由なのだから。」そのやり方ってどんなやり方?人間に選ぶ権利を与えてくれないやり方なのかな。
最後の辺は読む気がなくなった。核問題や、戦争問題や、政治や国という問題にかかわると面白くなくなる。この本は「The World is Flat」の次に、私はインドに関する読んだ本だから、インドへの関心はますます高まった。でも、「The World is Flat」と違い、金や自己向上の話題と違い、外向けの明るさだけではなく、開発とともに、向けらなければならないインドなりの問題がある。だから、インド以外にいる私はインドの今の絶好調の発展の外見に騙しちゃだめ、その絶好調の経済発展の裏に、苦しんでいる人は数え切れないほどいると気をつけないと。
アルンダティ・ロイ(2000)。私の愛したインド。片岡夏実。東京:築地書館。
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