May 30, 2007

フィリピンツアーの準備その①

まずはどうしてこの本を読むかというと、理由は夏にフィリピンへ行くことを決めたからです。今までフィリピンに関心がなかったくせに、フィリピンに行って何をするのか?ちょっとフィリピンに関する資料を読みたくて、ちょうど古川先生はこの本は読みやすくて、真剣に読まなくてもいいって言ってたから、読むことにした。
最初はちょっと面白く読めるんだけど、飛ばした部分も多かった。
バナナはどこから?
フィリピンのことを読むつもりだったはずなのに、最初の部分では台湾のことをたくさん書かれてある。日本の植民地になった台湾はバナナの生産地とされた。賢い台湾人(私の解釈ね笑)はバナナの品質を向上し、日本の市場を占めた。何か台湾とフィリピンは日本バナナ市場のシェア率を激しく競争したようなことが書かれた。また、私の目を引く言葉は

バナナに四季...。それが、台湾の植民地化とともに、四季によって需要が上下する日本市場と結びついたことは、南と北の不幸な関係の始まりになった。(p3)作者は何を意味しているのかよく分からない。
(P18)なぜミンダナオかー四つの理由
やっと今回のツアーに訪ねる場所のひとつミンダナオのことを語った。この部分は、なぜ台湾でなくミンダナオが米系資金を得て、バナナを栽培することになった理由の説明である。この部分は少し、ミンダナオの歴史事情と民族事情を書いてある。
1.フィリピンは1898年から1946年まで米国の植民地だった。1974年まで米系企業、米国市民は主として土地利用についてフィリピン国民と同等の待遇を受けていた。
2米国にとって、ミンダナオは「未開の野蛮人」の土地で、かつて1900年代にイタリアからの移民をアラスカに導入したように、黒人をここへ殖民しようなどという議論が1920年代の米国議会で行われている。このようなミンダナオ特殊視は今日まで続いている。
(フィリピンの中でも、ミンダナオは特集な土地柄だ。ムスリム(イスラム教徒)の勢いは強く、19世紀末まで続いたスペイン支配の350年間、ほとんど屈服しなかった。15世紀まで700年にわたってムスリムのムーア人がイベリア半島を支配したが、その頃からカトリックのスペイン人はムスリムを軽蔑して「モロ」と呼んだ。クリスチャンに対する抵抗を閉めるために、あえてその蔑称を選び、自ら「モロ族」を自称するようになった。そのモロ族は、カトリックに強化したクリスチャン・フィリピノの中央政府に、今日でも容易に服従しようとはしない。)
3.進出者の眼からすると、土地の入手が比較的に容易だと考えられたことだ。日本との間接的なかかわりがある。日本も台湾も米国の指導で農地改革が行われたのに、フィリピンでは大地主を保護した。理由は昔クラスで勉強したことあったけど、忘れた。
4.バナナの栽培にとって、ミンダナオは日本により実験済みの適地である。
それに続いて、私が注目したのが沖縄のことであった。
(70)
ダバオの日本人農園には、沖縄出身者が多かった。ベンゲット道路工事から入植した最初の集団に沖縄県人が多かったし、太田興業の幹部で沖縄出身の大城孝蔵が親分肌でよく世話をしたのがその一因である。日本の本土と琉球の間の差別関係が、ダバオの日本人社会にも持ち込まれていたようだ。沖縄出身者は、結束してこの差別に対抗した。
――ここもまた差別の問題が起こった。日本人が沖縄人への差別だけではなく、クリスチャン・フィリピノは少数種族に差別と恐怖感を抱いているので、バゴボ族と交際する沖縄県人を軽蔑と畏怖の複雑な感情で眺めていたかもしれない。
(215)
作る人々を思いながらー平等なつながりのために
最後に、またバナナに触れた。人類最古の栽培作物のひとつであり、東南アジアの原産だから、その土地の人々は、食品としてだけでなく、バナナを総合的に利用する。
ここまで読むと、日本のバナナは東南アジアから来たのかを分かることだけではなく、台湾も東南アジアのひとつってことは作者の考えに潜んでいることが分かる。
このパートに戻ると、作者が説明したかったのは、バナナを食べている日本人はアメリカの企業を経由し、バナナを栽培するフィリピン人と分断されたことはどう平等に繋がるのかを考えるべきだと示した。
以上。軽くダバオの事情を理解し始めた。
今では、台湾と言ったら、バナナが高くておいしいねと考える日本人はいるかな?

鶴見良行(1995)。バナナと日本人ーフィリピン農園と食卓のあいだー。東京:岩波書店。

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